今だけはどうか優しい夢を



今日は朝からずっと雷鳴が轟いていて、こんなこと滅多にないと先生すらも驚いているような1日だった。今にも泣き出しそうな曇天は稲光が走り、一瞬遅れて空気を震わせる。こんな日はさすがにマレウスも出歩かないだろう。そう思ったは外を眺めるのをやめ…オンボロ寮の中庭に、よく見るシルエットとは別の人影を見つけた。
「?」
もう一度確認しようと目を凝らすと、もうそこには何も居ない。しかし次の瞬間、魔法の煌めきが部屋に満ちてその人物が目の前に舞い降りた。
「…リリア先輩?」
目を瞬かせながら名前を呼ぶ。リリアはずっと前からそこに立っていたかのような自然な動作で口を開いた。
「突然すまんの。少々急いでおったのでな」
「いいえ、構いません。それよりこんな時間にどうしたんですか?」
マレウスは夜の散歩と称して定期的にオンボロ寮に足を運ぶが、リリアがこの時間に来たのは初めてだ。
「もしかして、マレウスに何かあったんですか…?」
不安げな表情のを見て、リリアは困ったように笑う。
「ない、と言えたら良かったんじゃが…ちと面倒な事になってな。いつもは上手く抑えられていたが、今回はそうもいかなかったらしい。しかしここは茨の谷ではないし、そのまま治るのを待っている時間もない。だからお主に協力して欲しいんじゃ」
敢えて具体的な事を話さないところをみるに、余程込み入った話なのだろう。しかも事態は急を要している。更にはマレウス関連の事となれば、拒否をする理由などない。
「わかりました。私に出来ることがあるのなら、お手伝いさせてください」
はリリアに真剣な眼差しを向ける。その視線を受けて、リリアは少しだけホッとしたような表情を浮かべた。
「お主ならそう言ってくれると信じていたぞ、。では早速行くとするか。脚を使うと時間がかかる。ほれ、わしに掴まれ」
「はい」
がリリアの手を取ると、リリアは先ほどと同じように移動魔法を使った。瞬く間に風景は変わり、ディアソムニア寮へと二人は降り立つ。途端、日中聞いていたものとは比べものにならない大きさの雷鳴が響き渡った。
「っ!もしかして、雷の発生源はディアソムニア寮にあるの…?」
「ほう、察しが良いの。雷はマレウスの呼んだものじゃ。もちろんこの曇天も、重苦しい空気もな。お主にはこれからマレウスに会ってやって欲しい」
「会うだけ…ですか?」
それだけならわざわざ理由をぼかす必要もないだろう。
「会えば分かる。ほら、マレウスの部屋はこっちじゃ。ついてくるといい」
相変わらずリリアは確信には触れず、を部屋へと誘う。大人しく後についていくと、次第に空気が濃くなっていくのがわかった。呼吸をするだけで身体の内側から痺れてしまうような、そんな空気が辺り一面に漂っている。そしてそれが一番強い場所は、案の定マレウスの部屋の前だった。
「開けるぞ、マレウス」
手短に声を掛け、リリアは扉を開ける。瞬間、先ほどよりも重い空気が一気に吹き込んできた。
「っ!」
思わず目を瞑り衝撃を受け流す。そうしてゆっくり瞼を開けたの目に飛び込んできたのは、普段のマレウスの姿からは想像も出来ないものだった。
「……!」
竜に変わる事が出来る、というのは度々聞いていたが、実際にそれを目の前にすると威圧感に圧倒されてしまう。だがその姿は完全なる竜ではなく、身体の一部分が変性している不完全な状態だった。
「リリアか……それと、お前は……!」
こちらを一瞥するマレウス。だがの姿を認識した瞬間、一気に空気が張り詰めた。
「……何故連れてきた」
マレウスはギロリと鋭い眼光を向けるが、リリアは特に気にせず答える。
「今お前に一番必要なものかと思ってな」
「必要ない。早く連れ戻せ」
「そうは言っても来たのは自発的じゃぞ?なぁ、?」
「…えぇ、そうよ。マレウスに何かあったのかと思って不安だったから」
実際のところ詳細は一切伝えられてはいなかったのだが、自ら此処へ来たことは事実だ。はマレウスを真っすぐ見据えて答える。
「お前には関係の無いことだ。帰れ」
視線を逸らし冷たく言い放つマレウス。だがの足は自然とマレウスの方へと向かっていた。
「ねぇマレウス、お願いだから私に何が出来るか教えて?貴方の力になりたいの」
ここに来る前、リリアはいつもは抑えられていると言っていた。ならば落ち着かせればいいのかもしれない。そう結論付けたは警戒されないようゆっくりと、一歩一歩マレウスに近づいていく。
「帰れと言っているだろう!!」
「っ!」
マレウスは咆哮をあげ、口から翠緑色の炎を吹き出す。それはの視界を掠めて空気を焦がした。だが次の瞬間には傷ついたような顔を浮かべ、マレウスはその身を更に闇の中へと埋める。
「……今の僕にはこの姿を制御する事は出来ない。これ以上お前を傷つけたくないんだ。だから早く」
帰ってくれ…そう呟くマレウスの声は、ともすると泣きそうなくらいに痛々しい。それを包み込むように、は優しく告げた。
「大丈夫。だって私には傷つく身体が無いもの。全てを焦がす炎も、切り裂く爪も。噛み砕く牙もなにもかも効かないわ」
「……!」
さっきの炎だって、驚きこそしたが怪我をしたわけじゃない。だから、きっと大丈夫。
「貴方には私を傷つけられないし、私も貴方を傷つけたりしない。だから朝まで一緒に居ましょう?ずっと傍に居るわ」
はマレウスの隣に座り、その身体を抱き締める。肌は所々鱗に覆われ、背中から生えた翼は雄々しい。鉤爪も、牙も、普段よりずっと鋭い。だけど、その眼差しは人の姿の時と変わらないから。
「いつもみたいにお話しして、眠くなったら子守唄を歌ってあげる。そうやって朝を待つの。絶対にどこにもいかないから、貴方の隣に居させて」
「………」
の言葉を受け、マレウスは黙ったまま身を寄せる。どうやら受け入れてくれたらしい。
「ふふ、やっぱり貴方は変わらないわね。鱗は髪と同じ綺麗な濡羽色だし…瞳も、声だって一緒だわ」
「……もしこの声が咆哮しかあげなくなったらどうするんだ」
「その時はドラゴンの言葉を覚えるわ。そうしたらまたお話し出来るでしょう?」
あやすように頭を撫でれば、大人しくされるがままになる。むしろ普段より素直かもしれないと思いつつ、はゆっくりと子守唄を紡ぎ始めた。それは茨の谷に伝わるという、以前マレウスに教えてもらった歌。
「………」
歌に込められた眠りの魔法に誘われ、マレウスは瞼をゆっくりと閉じる。緩やかな呼吸が聞こえてくると、いつのまにかマレウスの姿は元に戻っていた。
「どうやら上手くいったようじゃな」
それまで静観していたリリアがに微笑む。その表情は子供を見守る親のようで、マレウスが大切だというのがよく伝わってきた。
「お主ならやってくれると信じておったよ」
「ありがとうございます。こんな私を信じてくれて」
「?」
不思議そうな顔をするリリアに、は続ける。
「もしかしたら私の方が、マレウスよりもずっと怖いものかもしれないのに。大切な人を見守る役目を与えてくれたから。それが嬉しいんです」
素性の知れない、それこそ本当にゴーストなのかもわからない存在を受け入れて、託してくれた。それがは嬉しかった。
「お主は大丈夫じゃよ。わしが保障しよう」
の言葉に、リリアは先ほどと同じ笑みを浮かべて答える。
「マレウスよりも長生きしとるわしが言うんじゃ、信用せい。……だから今は、マレウスの隣に居てやってくれ」
「……はい」
今度はリリアがの頭を撫でる。それがこそばゆくて、は恥ずかしそうに微笑んだ。
「今はマレウスと一緒に眠るといい。朝はまだ先じゃからの。おやすみ、良い夢を」
「おやすみなさい、リリア先輩」
部屋を去るリリアの背中を見送りつつ、はマレウスの隣に横になる。気づけば空は晴れ渡り、星が瞬いていた。
「……貴方達が許してくれるなら、私はずっと一緒に居るから。だから、」
あの時差し伸べてくれた手を、どうか離さないで。
そんな言葉を胸に秘めつつ、は瞳を閉じた。