君の特別
ずっと気になっていたことがある。は俺に対して敬語を使って話すことだ。もちろんそれが悪いというわけではない。出逢った時の流れでそうなっているだけだろうし、それだって単に俺が年上だったという理由なのだろう。だが、もう少しだけ。歩み寄って欲しいと思うのは、俺の我が儘なのだろうか。
「あのさ、」
「はい、なんでしょう?」
答えるの声は軽い。昔はもっと固い声色で反応していたから、それだけ2人の関係が進展したのだと思うと感慨深くもある。だけど今日はそれで満足してはいけない。問題はこの次だ。
「ってさ、俺に対して敬語使って話すよね」
「?えぇ、まぁ……それがどうかしたんですか?」
「いや、悪いってわけじゃないんだよ?の敬語って凄く丁寧だし、俺なんかが使うよりずっと似合ってると思う!」
「ありがとうございます…?」
の困惑した表情に焦りが募る。違う、今はそんな話をしたいんじゃない。
「そうじゃなくて!って俺には敬語だけどトーマには敬語使わないよね? 呼び捨てだってしてるし…俺が年上だから敬語っていうのはわかるんだけど、それならトーマだってトーマさんになるんじゃないかって」
ウキョウの言葉には更に困惑した表情を見せる。
「え…と、トーマは初対面の時に敬語使わないでいいよって言ってくれたので…その流れで呼び捨て、なんですけど…」
「………」
「それ以上になにか理由があるわけではないので……もしウキョウさんの求めている答えになっていなかったら申し訳です……」
「いやいやそんな深い理由じゃないから!なんか変な質問して困らせちゃったってごめんね!」
「………」
「………」
気まずい沈黙の後、ウキョウはようやく口を開いた。
「あの…さ、俺、にウキョウって呼んで欲しいんだ」
先程から道がそれてしまってばかりだったが、本来の目的はこれだ。に名前を呼んで欲しい。敬語じゃなくて、もっと砕けた調子で。呼び捨てという特別な呼び名を、彼女にも用いて欲しかったのだ。
「………」
「駄目、かな?」
「駄目じゃないですけど…」
「あとその敬語も」
「………」
押し黙る。先ほどと違う空気の沈黙の中、ウキョウはの返答を根気よく待った。
「………わ、かり、ました。善処します」
「ほんとに?!良かった~」
ほっとした表情で笑うウキョウ。対しては神妙な面持ちで彼を見据えた。だが少しして、意を決したように口を開く。
「えっと……ウキョウ………さん」
「………」
「じゃなくて!ウ、…ウキョー……さ、」
「………」
「……ウキョ…うううやっぱり言えません!…じゃなくて言えな、い……です…はい」
「………」
どうやら問題はこれで終わらないらしい。積み重ねた癖や羞恥心は簡単には抜けてくれないようで、は口を開いては口ごもるのを繰り返した。その姿に思わず苦笑が漏れる。
「そんなに難しい?」
「え…いや、そんなことは……あります」
「そっか。別に今すぐ出来なくても大丈夫だよ?」
「……で、でも」
「無理して呼んでもらうのはちょっと違う気がするし」
「………」
から自発的に名前を呼んでもらえなければ意味がないのだ。自分と同じ場所にの方から歩み寄ってもらわなければ、きっと求めていたものは得られない。
「じゃあさ、俺が次の取材旅行から帰ってくるまでにしない?」
「?」
「明後日からまた海外に行くって言ったでしょ?期間は一週間。それまでは待つよ」
ウキョウの言葉にはほっとしたような表情を見せた。 いきなり実行するには決心がつかなかったが、タイムリミットが決まっているのならなんとかなるかもしれない。
「わかりました。じゃあそれまでに練習しておきます」
「名前を呼ぶ練習ってのもちょっと変だけどね」
「し、仕方ないじゃないですか…!」
「うんうんわかってるって。じゃあ楽しみにしてる」
「……はい」
先ほどよりも真剣な表情で頷いたを見て、何とも不思議な気持ちになりつつウキョウはそのときに思いを馳せた。
本当は、呼べないわけじゃない。ずっとこの立場にいたから、この関係でいるのが当たり前になっていたから…一歩を踏み出すことが出来ないのだ。そこに立つのに必要な要素はもう手に入れた。あと必要なのは、ほんの少しの勇気。
「……先輩、何してるんですか?」
「っ?!!」
後ろから声をかけられ、は飛び上がらんばかりに驚いた。どうやら集中していたらしい。
「わっ!そんなにびっくりされるとこっちも驚きますよ!」
「ごめんごめん……あれ、もしかしてもう休憩終わり?」
「いいえ、お客さん少なくなったので少し早めに休憩頂いたんです」
「そっか」
ミネはエプロンを外して隣の席に座る。
「それよりさっきから何してるんですか?」
「これ?ちょっと呼び捨ての練習を」
「………呼び捨て?」
「あっと、その、ウキョウさんに対して普通に話せるよう練習してたんだ」
疑問符を浮かべるミネをみて、は慌てて付け足した。
「そうだったんですか……」
話が終わるとはまた練習に集中する。真剣な眼差しはウキョウへの想いを伝えるかのような熱さをまとい、その姿だけみればまさに恋する乙女であると思えるだろう。だがしかし、その視線の先には。
「………」
ウキョウの写真があった。しかも視線がこちらに向いていないものばかりである。少々引き気味のミネに、同じく休憩に入っていた彼女は慌てて助け舟をだす。
「ウキョウは今仕事でまた海外に行ってるんだって。だから写真で練習してるらしいの」
「でもだったらもっといい写真あるじゃないですか」
「正面からの写真だと恥ずかしくって直視できないみたい」
「え。先輩まだそんなこと言ってるんですか」
「仕方ないよ。それだけ好きってことでしょ?だから見守っててあげよう?」
「はーい。わかりました」
一応は納得したのか、ミネはそれ以上追求することはなかった。は相変わらず写真を凝視したままウキョウの名前を呼ぶ。その光景に彼女は温かい視線を送り、当日の成功を祈った。
勇気はまだ足りない。でももう逃げてもいられない。大丈夫、だってここにいてもいいと言ってもらったんだから。最後の勇気は、彼に貰えばいい。
「………」
今日はウキョウが帰ってくる日。
少し前に最寄りの駅についたとのメールがあったから、あと数分で彼はこの扉の前にくる。ウキョウの家の玄関先で、は正座をしながらその瞬間を待った。
「………」
自分はただ、一言声をかければいい。それだけ。
「………」
沈黙が苦痛になってきた頃、聞き慣れた足音が聞こえてきた。それはこの扉の前で止まり、鍵が開く。扉の開けるなり飛び込んできた目の前の光景に、ウキョウは目を見開いた。
「?!、どうして正座なんかしてるの?!」
「あのっ!」
答えるよりも早く、が口を開く。
「………?」
大丈夫。あんなに練習したのだからきっと上手くいく。あの子だって応援してくれた。それが何よりのエールじゃないか。
「……おかえりなさい、ウキョウ」
「っ!!!」
先ほどとは違う意味で驚くウキョウ。驚き過ぎたのか肩にかけていた荷物が地面に落ち、中から機材が顔をだす。
「?!ウキョウ大丈夫?!カメラカメラ!」
「え?あ……そっかカメラ………」
「壊れてないか早く確認して!」
「いや、でもそれより先に」
「?」
「が」
「???」
「ウキョウって」
「………え?」
これは、もしかして。
「名前、さん付けじゃない……しかも敬語も抜けてる……」
呆然と呟くウキョウに、の疑問は確信に変わる。
ウキョウは先日交わした約束を忘れているのだ。
「………」
「……?」
「なんでもないです。それより早く片付けましょう」
「えっ?!なんで戻って」
「そのままにしておくと通行の邪魔です」
「……あ!!!そうだ!そういう話してたよねごめん!」
の態度があからさまに硬化したことで、ウキョウはようやく約束を思い出す。
だがもはや後の祭り。
は無言で機材を家の中に運び入れる。
「別に構いませんよ。ウキョウさんお疲れみたいですし」
「いや確かに疲れてるけど!疲れすぎてうっかり忘れちゃってたけどちゃんと電車を降りるまでは覚えてたから! それを唯一の楽しみに帰ってきたんです!」
「そうですか」
「だからごめんって!!」
必死に取り繕うウキョウに少しだけ同情の気持ちが湧いたが、今までの努力を振り返りは無言のまま部屋へと戻った。
こんなはずじゃなかったのに。心から驚いたけれど、それと同じくらい嬉しかったんだ。それをちゃんと伝えたら、は許してくれるかな。
「機嫌直してよ、ね?」
「………」
膝を抱えて床に座ってしまったを、後ろから抱きしめるウキョウ。自分より小さい身体は、ウキョウの腕にすっぽりと埋まる。
「忘れてたのは本当に悪いなって思ってるよ。せっかく頑張ってくれてたのにごめんね」
「………練習、してたんです」
「うん、そうだよね。初めは全然言えなかったのに、さっきおかえりって言ってくれたの凄く自然だったから」
「あの子達も協力してくれたんです」
「そっか。じゃああとでお礼に行かないとね」
少しして、ぽつりぽつりとがしゃべりだす。自分がどんなに頑張ったのかはもちろん、冥土の羊で練習していたこと。それに一つずつ答えると、はようやくウキョウの方を向いた。
「本当は……凄く怖かったんです」
震える声で言葉を紡ぐ。だが視線は真っ直ぐとウキョウを見据えている。
「今の関係でさえ夢のようなものなのに。これ以上幸せになったら駄目な気がして」
「………」
相変わらず、は幸せを享受するのが苦手だ。それは今までのことを考えれば仕方ながないのかもしれない。でも、もうそれは卒業するべきだ。
「ねぇ、」
「?」
ウキョウはの瞳をじっと見つめる。
「俺はね、ともっと仲良くなりたいと思ってるんだ」
「………」
「呼び捨てってさ、特別に感じない?の特別に俺はなりたかったんだ」
「特、別……」
本当はもっと色々理由はある。だって多分それは感じてる。でも、今はこの言葉が一番しっくりくる気がした。
「だからもう一回だけ。名前を呼んでくれないないかな」
ウキョウに促され、はゆっくりと口を開く。
「ウ…キョウ」
「うん」
「ウキョウ、好き」
「うん」
「大好き、ウキョウ」
「俺も大好きだよ」
抱きしめる力を強くすれば、は同じだけ返してくれる。その温もりがいつもより嬉しくて、ウキョウは更に抱きしめる力を強めた。
「愛してるよ、」
やっと叶った小さな願い。耳まで真っ赤になってしまったに苦笑しつつ、ウキョウは今の幸せを噛み締めた。